早大斎藤へ

早実斎藤投手は、卒業後の進路にプロ野球ではなく大学野球を選んだ。

2007年1月6日、早実斎藤投手は、早稲田大学教育学部社会科への進学が内定した。
この内定が決まったことから、翌7日にもハンカチ王子こと斎藤祐樹投手の姿が、東京・八王子市の早大グラウンドに見られるのではないかという期待がもたれたが、姿を現すことはなかった。

実は、正式な決定は2月上旬まで待たなければならないという。
早実野球部佐々木慎一部長によると、この段階では、あくまでも早実の中で早大へ推薦する候補に決まった段階であり、学校として発表したものではないとの事であった。

まだ、早実斎藤投手は、高校内で行われる大学進学に備えた特別授業を受け、大学の教授会の決定を経なければならないのである。


そんな中、ハンカチ王子こと早実斎藤投手は、1月10日、都内のホテルで行われた早実野球部OB総会に出席した。
その際、ソフトバンク・王貞治監督との初対面を果たす。

57年の選抜優勝投手でもある王監督は、2006年夏の甲子園で優勝した早実斎藤投手の活躍をねぎらい、4年後にはプロ野球を背負う投手になるようゲキを飛ばした。

1年前には、その他大勢の部員の一人に過ぎず、王監督の記憶にも残らなかった早実斎藤投手であったが、1年経って日本球界の将来を担える男にまで成長していたのである。

早実斎藤投手と会った王監督は、「初めて会ったが体も大きくないし、よくあれだけ連続で投げられたと思うよ。」と評し、「彼にとって進学は正解だったと思う。大学なら1年生から活躍する可能性はある。大学進学は本人のためにも、日本球界のためにもなる」と最大級の激励の言葉を贈ったのである。

早実斎藤投手の人気の秘密は、計り知れない野球の実力に負うところ大ですが、それだけでなく、斎藤投手自身の人間性や周りの応援している人たちとの心温まるエピソードにもあることを忘れてはならないでしょう。

そうです。
早実斎藤投手の選手生活を影から支えていた兄・聡仁(あきひと)さん(21)の登場です。

聡仁さんは、早実斎藤祐樹投手と都内で2人暮しをしながら、練習で忙しい弟のバックアップができればと、炊事選択を一手に引き受けている。

かつては、聡仁さんも群馬県で球児だったこともあり、自分も甲子園に行きたかった思いを弟の祐樹投手に重ねていると言う。

兄・聡仁さんのエピソードとして、西東京大会決勝戦前日の夜に、携帯電話のメールで「「自信を持って。おまえならできるぞ」と弟を励ましたことが伝えられている。

聡仁さんは、甲子園の決勝戦にも応援に駆けつけた。
9回表、1点差に詰め寄られてからの早実斎藤投手の投球は、空振り三振ゲームセット。
5万人の大観衆が、一瞬、息を呑み、次の瞬間、体を震わすような、一段と大きな歓声と拍手が球場にとどろいた。

普段、ピンチのときも、三振をとっても、表情を崩さず「クール」と形容されてきたエース斎藤が、このときばかりは泣いていた。
その早実斎藤投手の肩を、背中を、仲間たちがたたき続けている。

そして、アルプススタンドにも一人、えんじ色のタオルに顔をうずめ、うれし涙をながす青年の姿があった。
そう、兄・聡仁さんである。

「弟の苦労を一番近くで見てきたから……。お疲れ様でした、と言いたい」そこまで話し、涙で言葉が続かなかった。
群馬県の故郷を離れ、東京での2人暮らしで、弟の斎藤祐樹投手を支えてきた日々を思い出していたのかもしれない。

球史に語り継がれる投手戦

早実斎藤祐樹の名を球史の永遠に語り継がれることになったのは、記憶にも新しい、駒大苫小牧高・田中との壮絶な投手戦である。

結果的にその試合は、早実斎藤と駒大苫小牧高田中の投げ合いの末に、延長15回引き分け再試合となった。

打高投低と呼ばれる昨今の高校野球にあって、正に凄いとしか言い様のない試合だったのである。

まず、両投手の記録から見てみよう。

    早実 斎藤 178球 15回    7安打 16奪三振
 駒大苫小牧 田中 165球 12回2/3 7安打 10奪三振

この数字から判ることは、内容的に早稲田実高 斎藤佑樹投手が、駒大苫小牧高 田中将大投手を上回っていたことである。

特に圧巻なのは、15回2死から駒大苫小牧四番・本間篤史を迎えた場面。

早実斎藤投手は、それもでの5日間で4試合目に出場し、しかも3連投の中、その回、既に170球を超えているにも係わらず、全6球中、147キロを2度、146キロを2度ずつマークしたのだ。

観客は、早実斎藤投手の初球147キロにどよめいた。
そして、カウント2-3になると手拍子と「斎藤コール」の大声援をマウンドの早実斎藤に送った。

場内を埋め尽くす大拍手は、駒大苫小牧高側のブラスバンドの音さえもかき消してしまうほどで、異様な感じさえあった。

普通、大きな声援に球状が沸くときは、攻撃側に対してである。それが、守備側の、それも一人の投手に対してこれほどの声援が飛んだことは記憶にない。

早実斎藤投手の投球は、球状全体の観客をそれほどまでに魅了したといっても過言ではないであろう。


実は、早実斎藤投手は、11回にも凄さを見せ付けていた。

早実斎藤投手は、カウント1-1からワンバウンドのスライダーを投げて、相手側のスクイズを失敗に終わらせたのだ。

その時のことを早実斎藤投手は、こう振り返っている。
「低めにスライダーを投げようと思ってたんですけど、足を上げたときに三塁ランナーが走ったのが見えたんで、ワンバンを投げました。白川(英聖捕手)は止めてくれるという信頼感があるので」

早実斎藤投手の凄さは、スタミナもさることながら、再試合寸前の緊迫感にあっても冷静さを失わないところにもあると言えないだろうか。


実は、この試合は、早実斎藤投手だけが凄かったのではない。

駒大苫小牧田中投手も早実斎藤投手に勝るとも劣らない投球をした。
そこには、超高校級と言われ、怪物扱いされていた姿はなく、勝つためになりふり構わなず試合に打ち込む姿があった。

13回2死二塁に打者としてサードゴロを打った時には、投手であることも忘れ、ヘッドスライディングでベースに飛び込む。
それは、、駒大苫小牧田中投手自身「公式戦で初めて」というヘッドスライディングでもあった。

また、その裏に迎えた2死三塁のピンチでは、一転して冷静な投球を見せた。

ベンチから敬遠による満塁策の指示にも、「気持ちを切らさず投げた」と振り返ったとおり、満塁の打者に対しても、初球のスライダーで今大会2本塁打の船橋悠をセカンドゴロに仕留めたのだ。

早実斎藤が147キロを投げた後の15回裏にも自分を見失うことはなく、外角低目を130キロ代後半の急速で丹念につき、無失点に抑えている。

その時のことを駒大苫小牧田中投手は、「いらん感情はいらない。自分も、となったら崩れると思ったので、冷静に丁寧に投げました」と振り返っっている。


試合後、早実斎藤投手と駒大苫小牧田中の両投手は試合を振り返って次のようにコメントしている。

早稲田実高 斎藤祐樹投手「もしかしたら、こうなるかもしれないと少し思ってました。最初から1対0とか2対1とかロースコアの試合になると思ってたので」。

駒大苫小牧高 田中将大投手「(早実斎藤祐樹投手は)簡単に点を取れるピッチャーじゃない。こういう試合になると思ってました。延長に入った時点で15回いくかもと思いました」


そして、再試合に向けて続けた。

早稲田実高 斎藤祐樹投手「ここまで来たら男と男の勝負だと思います。気持ちがあれば抑えられる」。
駒大苫小牧高 田中将大投手「お互いにいいピッチングができれば。気持ちで向かっていきたい」。

なんと清清しいことだろうか。


プロ野球では、実力のある選手が大リーグへ流出し、国内のプロ野球界の空洞化を心配する声もある。

しかし、彼らのような選手がこれからも多くでてくれば、日本の野球界もそう悲観的にならなくても良いのかも知れない。

斎藤という投手 その1

早実斎藤佑樹投手(群馬県出身)が高校野球ファンだけでなく全国の国民に注目されたのは、伝説になったとも言える甲子園での熱闘からではないだろうか。

しかーし。早実斎藤投手は、まだ、全国民的な注目とまでは行かなくとも、一部のスポーツジャーナリストの間では、もっと早い時期から注目を集めていたことは間違いのないことである。

例えば、甲子園出場をかけた西東京大会での活躍を伝える記事には、春夏連続出場に貢献した早実の斎藤投手として紹介されている。

早実斎藤投手といえば、その甘いマスクと上品さ、そして全国的に広まった「ハンカチ王子」という愛称で親しまれ、全国の女性ファンも多い。しかし、早実斎藤の本領は、何よりも他に類を見ないタフさにある。

まず、第一に挙げられるのは、早実斎藤投手の精神的なタフネスである。

それは、西東京大会決勝戦での活躍にも見て取れる。

早実 斎藤投手は、初回、先頭打者に三塁打を浴びると、二塁手の失策、続く相手打者による三塁打と立て続けに責められた。さらに四球、死球でピンチが続いたのだが、早実斎藤投手は、そこで崩れないのだ。

続いて、早実の斎藤投手は、1年生の相手打者に「核の違い」を見せ付けるように内角直球で見逃し三振に切って取ったのである。

相手は一年前にコールド負けを食らったチームである。いきなりの先制パンチに続く制球難で広げたピンチ。
普通なら動揺してもおかしくない。

しかし、早実斎藤は微動だにせず、死球を与えて相手打者が痛みにうずくまった直後の打者に内角の厳しいコースを平気で責めたのである。

そして、同じ試合の延長10回。早実斎藤投手は、無死一、二塁から投手前の送りバントの処理で、三塁へ悪送球し、勝ち越し点を許してしまった。しかも、なおも1死二、三塁のピンチに初回に打たれた打者が回ってきても真っ向勝負を挑んで打ち取ったのである。

早実斎藤投手は、こう言う。
「とにかく最少失点に抑えようという気持ちでした。昨年は(ピンチで)焦ったこともあったけど、この夏は一度も焦ることはなかった。一番自信があるのはインコースの真っすぐ。自分の投球ができれば抑えられると思ってました」と。

この言葉に、取材に当たったスポーツジャーナリストをして、早実斎藤に「自滅」という言葉はないと言い放たせたのである。



早実斎藤佑樹投手プロフィール

右投右打、ポジションは投手。
1988年6月6日生まれ。群馬県太田市出身。

斎藤という投手 その2

先回の記事では、早実斎藤投手の精神面のタフさについて紹介した。

今日は、早実斉藤の体力面でのタフな面を紹介しよう。

早実斎藤投手は、2006年、春の選抜での2回戦、関西高校戦で231球を投げ、延長15回を完投した。

そして、その翌日の再試合も早実斉藤はリリーフ登板し、7イニング103球を投げた。
準々決勝の横浜高校戦では大敗を喫したが、この連続登板の内容を見ると、早実斎藤投手のスタミナは実証していると言えるであろう。

2006年夏。西東京大会決勝戦。その日、早実斎藤投手は、30度の炎天下の中、延長11回221球を投げ切ったのだが、彼の球威は衰えるどころか、終盤になるほど増す感じさえあったのである。

その証拠に、早実斉藤は、170球を超えた9回には、自己最速タイの149キロという数字を記録したのである。

早実斎藤投手は、こう言う。
「スピードにはこだわってません。夏はここまでやってきたことの集大成。ミットめがけて思い切り投げた結果が出たと思います」と。

早実斎藤投手のタフネスは、投球だけではない。試合の終盤局面である8回には、一塁走者として盗塁も試みている。

早実斎藤投手は、「投球以外でもとにかく勝利に貢献したかったんです」と言う。

体力温存などという考えは、早実斎藤投手の頭の中には毛頭ない。
勝つために、できることをすべてやる。
そんな気迫に溢れたプレーが、早実斉藤投手自身「自分でもこんなにスタミナがあるとは思わなかった」と言うほどの驚異の体力を生んだのである。

早実斎藤投手は、精神面、体力面のタフネスに加え、打者からみたタフさも備えている。
どういうことかというと、早実斉藤は、0−2、1−2といった打者に有利なカウントでも積極的に変化球で勝負するのである。


早実斎藤投手を伝えるスポーツジャーナリストは、最後に早実斎藤投手に対し、心、技、体すべてにおいてタフネスであり、これほどまでに攻略難易度の高い投手はなかなかいないとまで言っている。

早実斎藤投手は、「甲子園ではセンバツで(3対13で)負けた横浜とやりたい。最後は気持ちで勝つという執念を持って戦いたいです」と言っていたという。
早実斎藤投手を一躍時代の人にした夏の大会での活躍も、春の大会で負けた後、悔しさから土を持ち帰らなかったというほどの思いがあってのことだったのではないだろうか。


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